ミューズは願いを叶えない


10月22日 某時間
検察庁 牙琉響也 オフィス

 守衛の2、3人を吹っ飛ばす勢いで押し掛けた王泥喜を、至極不機嫌な表情の響也が迎えた。部屋のディスプレイも、普段ならば流れている映像などなく、どれも数字の羅列だけが踊っていて、響也が抱えている仕事を連想させた。

「言っとくけど、僕は君を利用したりしてないからね。」

 王泥喜の台詞を先読みしてそう釘を刺した響也に、だからと言って、黙って引き下がるつもりなど、王泥喜にあるはずがない。
 自分の憤慨を表現すべく、扉を勢い良く閉じる。殊の外大きな音をして閉じたので、流石の王泥喜の声も掻き消され、もう一度同じ台詞を繰り返さなければならなくなった。

「このタイミングの良さ。偶然とは思えません。」

「僕だって迷惑してるんだよ。いま抱えている公判以外にも、仕事が増えたんだからね。」
 どうやらそれは本当らしく、響也お得意の余裕綽々の表情は影を潜めきついものに変わっている。
「寧ろ、君の上司が御剣さんに吹き込んでくれたようだよ。
 毎晩、僕の部下と一夜を過ごす程暇みたいだ…なんて。良く言ってくれるよ、成歩堂龍一!」
 ふんと鼻息も荒く、机の上に散乱した書類をバサバザとひっくり返す。
ゆとりを失ってカリカリしている響也を眺めていると、何故だが気分が落ち着いてくるのを感じて、王泥喜は少しばかり首を傾げた。『いい気味だ』とか『ザマミロ』という感覚ではない。胸を転がすこの感情は、どちらかと言えば、可愛いと言う代物に酷似している。
 『可愛い?』
 自分の行き着いた答えに、ハタと冷静になり、んな訳あるかと首を振った。ともかく、先程まで憤っていた感情は沈静化されていたので、目の前で憤慨している男に向かって、肩を竦めてみせる。
「だから、みぬきちゃんが絡むと見境がないんですよ、あの人は。」
 驚きに眼を丸くする響也に、浮かぶ感情がくすぐったい。
手にした書類をゆっくりと机に降ろすと、響也は王泥喜を覗き込んだ。
「何、それ? これは彼の復讐って事かい?」
「まぁ、恐らく…。」
 ボリボリと額を人差し指で掻きながら、王泥喜は苦く笑った。特徴的な前髪も、緩く下を向いている。あの親子の芝居じみた仲の良さは胡散臭いが、成歩堂がみぬきちゃんを大切に想っていることは疑いようもない。
 響也はそれでも暫くの間は目を見開いてはいたが、一度目を閉じてからは、いつもの余裕を取り戻したようだった。
 前髪を指先で弄りながら唇に笑みを浮かべる。
「OK、理解したよ。要するに、お嬢さんに気に入られている僕に嫉妬しているって事かい? そう考えると、可愛いじゃないか、成歩堂龍一も。」
 上司の悪癖を白状するなんて酷く情けないものだったが、響也も(自分勝手に)納得したようだったので、ヨシとする事にした。
 何よりも自分の機嫌が直っている事に、王泥喜は驚いていた。
一体自分は何をいきり立って、牙琉検事のオフィスにまで押し掛けてしまったのだろうか…冷静になればなるほど羞恥心の方が頭を擡げる。
「おデコくん。」
「…はい?」
 その渾名に返事をしたくは無かったが、状況におされて応えてしまう。
「で、今夜は何時なの?」
「はぁ?」
 堆く積まれた書類に視線を彷徨わせてから、王泥喜は響也を見た。いつの間にか、椅子に座りピラピラと書類に斜めに視線を走らせている響也は、王泥喜が答えない事で顔を上げる。
 指で机(なのかこれ?)をトントンと弾く。
「聞こえて無かった? 今夜だよ。」
「アンタ、これだけ仕事が溜まってるのに、まだ見張りをするつもりですか?」
 これは本当に呆れた声が出た。けれど、響也はにこりと笑う。
「当たり前だろ。真実が見つかるまで僕は諦めるつもりなんかないし、おデコくんと楽しい一夜も諦めるつもりはないね。
僕は障害があればあるほど、燃える性格なんだ。」
 勿論、この仕事とは別だけど。そう響也は付け加えるのを忘れなかった。
 王泥喜は、降参という名の白旗を揚げる。意地っ張りは意地っ張りだが、此処まで貫き通せれば立派なものだし、そういう人間を王泥喜は嫌いではない。寧ろ、好ましいと思う。
 信念を曲げる事なく大切なものを忘れなかった、あの日の裁判を思い出す。牙琉響也は、何よりも優先して『真実』を選び取った男だ。
 
「この間と同じ時間で。検事は仕事の具合で合流して下さいね。」

 王泥喜は笑った。労う言葉まで口から滑り出してしまい、自分自身で驚いたが、響也はただ好意的に受け取ってくれたようだ。嬉しそうな笑顔に、何故だか王泥喜も嬉しくなる。
「ありがとう、おデコくん。じゃあ、後でね。」
「はい。」
 手を振って部屋を出て、王泥喜は腕を組んで立ち止まる。
 ただ、約束を交わすだけの為にわざわざこんな処まで来てしまったようだったが、心中は奇妙に晴れやかで、なのにざわついていた。
 響也といると、普段から感情的にはならないはずの自分が違うのだ。
 実の両親が不在だという事実もあり、人に迷惑を掛けないようにという気負いの為にか、どうも他人と距離を置いてしまうはずの自分が違う。結構率直に会話をしているような気がする。
 乗せられていると言えば、言葉が悪いだろうか?

「…単に振り回されているだけ…かな。」

 奔放な響也の性格を考えてみるに、それが妥当なのかもと王泥喜は結論づけた。


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